長年愛されるお店 中国料理 「ル・シノワ かわで」を訪ねてみた。
閑静な河原町から一本奥、金華山を見上げながら悠然と佇むお店を訪問した。
- 創業から変わらぬコンセプト
- 継承
- 大事にしている価値観
- 人への想い
- 未来へ
①創業から変わらぬコンセプト
「来年で20周年を迎える」先代から引き継いだお店への想いを話してくれた二代目の店主・木山 泰朗(きやま やすお)さん。インタビューの際も、電話が鳴り止まないほどの人気店だ。
「先代より受け継いでから、インタビューや取材はお断りしているんです。だって、お店に来た人に”空気感”を大事にしてほしいから。」第三者が書き留めた記事で、大切にしている世界観を崩したくないからだと語る。細事に至るまで、お客様への配慮が見える姿勢に頭が下がる。
お店の由来を尋ねてみた。
「”かわで”は、先代の名前です。ル・シノワは、”ルーベルシノワ”というフランス料理のように一皿ずつ提供するスタイルのことです。中国料理は、一般的には大皿で提供する料理ですが、先代が考案したこのスタイルは創業当時から変わっていません。」
創業当時は、岐阜に本格的な中国料理も中華料理も現在程多くは無かった。中国には四大料理があるが、特にその中でも「ル・シノワ かわで」では「広東料理」を主に提供している。味が濃いイメージを連想する中国料理だが、ご年配のお客様も多いお店では、広東料理をベースに「日本人好み」の味付けを大事にしている。”ホテルの中華を楽しんで欲しい”広東料理の伝統は守りつつも、和を織り交ぜた創作料理は、日本人の味覚に合わせた「ル・シノワ かわで」の料理の醍醐味である。
※余談だが、「中国料理」は、一般的には中国の料理をそのまま、または、アレンジして提供している料理を指す。「中華料理」は、中国伝来の料理を日本人向けにアレンジ、または創作された料理を指すことが多い。
②継承
今の前進のお店は、先代が岐阜長良で始めた【ブリキ屋】という店だった。ブリキ好きが高じて、店内はブリキの玩具で溢れていた。
当時のお店の常連が、現在の店舗の土地を所有している方(大家さん)であったこともあり、その方のご厚意で現在の土地を貸していただけたことが、今の場所に根を張ることに起因する。
現在の場所に店舗を構えることで「この立地を活かした店を作りたい。」と考え、「ル・シノワかわで」を始めた。この場所は、好立地のため行政など様々な方から貸して欲しいと声をかけられていたが、決して誰にも貸さなかったそうだ。大家さんが先代の魅力的な人柄に惚れ込んで土地を譲ったことが、今に繋がる。
木山さんは、先代からお店を引き継ぐ際も”大家さんに気に入ってもらう事”から始まった。
「先代の人柄に惚れて土地を貸したもんだから、僕も大家さんに気に入ってもらわないと出て行かないといけなくなる。(笑)」
と冗談まじりに話す木山さん。先代の培ってきたハードルは予想以上に高い。ここで木山さんへ代替わりした経緯、そして出会いのきっかけを聞いてみた。
高校生の頃、木山さんの友人が岐阜のホテル”グランヴェール岐山”で働いており、アルバイトに誘われたことがきっかけでホテルに務めることになる。そこから、高校三年生の時に進路に悩んでいた際「一緒に就職しないか」とまたもや友人に誘われたことがきっかけで、ホテルマンの道へ更に突き進むことになる。18歳で就職し、周りは全員年上、朝6時から働くことも当たり前の職場だったと語る。
「当時踏ん張ったからこそ、頭の回転も早くなったし、物怖じしなくなった。」
厳しい環境で育てていただけたことが今の自分に繋がっているという。そこから、ホテルの業界に興味が湧き、その後、東京の一流ホテル:ウェスティンホテル東京へと務めることを決める。
「都会のホテルを一度体験してみたかった。」
木山さんを突き動かしたのは、何でもやってみるという好奇心だった。東京に行って気づいたことは「サービス・料理、どれもクオリティーが高い」ということだった。木山さんは、東京で”一流のホテルマン”の経験を積むこととなる。
そこから、岐阜へ戻り紆余曲折を経て、先代のオーナーと「ル・シノワ かわで」で出会うこととなる。実は、先代も東京の一流ホテル:ホテルオークラの出身だったのだ。二人は出会うべくして出会ったように感じた。
「先代に、私の結婚式のスピーチを依頼した時に”木山に継がせます!”と冗談まじりに言ったことが、結局現実になっちゃったんです。(笑)」
どこかで先代は木山さんに本気で継がせることを当時から考えていたのかもしれない。先代は引退を決意した際「店は木山に任せた」とお店の全てを託して退いた。結婚式でのスピーチから8年後のことだった。
③大事にしている価値観
「”お客様と喋ること”です。」
ご年配の方がお客様の大半を占めるお店では、「体調大丈夫?」や「先月来なかったけど、どうしたの?」のようなフレンドリーな対話を求めているお客様が多いのだという。ホールのスタッフは、”肩肘張らずできる世間話”を大切にしている。
お店では、月替りの1種類のコースを提供をしている。月に1回食べに来ていただけるリピーターさんの周期を考えてのことだ。ただし、メニューの”前菜とデザートは変更しない”。なぜなら、お客様がそれを目的に来ているという声が多く、いつもと違うと怒るから固定にしているのだという。お客様との対話の中で、どんなものが食べたいかを調査し、常にお客様の目線に立ち、メニューの考案に務めている。この柔軟な対応は、先代より受け継いだ価値観が根底にある。
「1番は立地、2番は雰囲気、3番で料理。オーナーの考えは食事は二の次なんです。料理は美味しくて当たり前”食事の雰囲気”をお手伝いする添え物と考えています。」
先代も木山さんも「ホテルマン」であり給仕に専念、そして料理長は料理に専念するという「分業」の形が「ル・シノワ かわで」では、当たり前だ。先代は東京のホテルオークラ、木山さんもウェスティンホテル東京という一流ホテルの出身。そして、メニュー開発のシェフは先代が声を掛けた人が担う。一般的に、店主が調理場に入り料理に専従する形式が多い中、分業にこだわる理由は何故だろうか。
「お客様の声をフラットな状態で聞いて、そのままシェフへ伝えることを大事にしている。」
給仕と料理を別々にすることで、常に”お客様ファーストの状態”を徹底している。オーナーシェフの店にありがちではあるが、職人気質が災いすることもある。「これが美味しいと思うから、お客様にもこれを食べて欲しい」というエゴではなく、常にお客様の機微を最優先にする。「常にお客様の意見に耳を傾ける」状態を保ち続けることが、20年近くお店が愛される秘訣なのかもしれない。
「静かな空間作りにこだわっている。うるさいお客様は帰ってもらう時もあります。勿論、子供連れのお客様でも遠慮せず来ていただけるように、個室にご案内するなど配慮している。そして、高い(価格・敷居)と思われるイメージも払拭しない。勇気を出して来てもらった時の感動って格別だから。」とお店へのこだわりを力強く語ってくれた。
④人への想い
店内に入ると、一番奥の壁に「百折不撓(ひゃくせつふとう)」の文字が飾られている。意味は「幾度失敗しても志を曲げないこと」だそうだ。これは、先代の出身である「岐阜県立岐阜高等学校」の校訓から来ている。
「ル・シノワ かわで」では、創業から「岐阜県立岐阜高等学校」の人ばかりを採用するのだそうだ。理由は、頭がいい=機転が利くということもあるのだそうだが、やはり同じ想いに共感していることが大前提の理由である。百折不撓の魂がお店の中に根付いていることは、採用や教育にも大きく繋がっている。
「飲食店として働く人材を集めるのが課題」と木山さんは語る。創業より20年、昔から求人や広告などは一切行わないのがモットーだ。
「飲みに行って気になった人に、直接声を掛けてスカウトすることもある。」これからも人の採用にも先代から受け継いできた手法と、想いが重なった人を集めていきたいと話す姿にこだわりを感じた。「ル・シノワ かわで」で働く人に脈々と流れる挑戦する心は、「百折不撓」の精神が浸透しているからだろう。
⑤未来へ
「地域の活性化がしたい。色々な人と町おこしができたら楽しい。」
無邪気な笑顔で語ってくれた。周りのご縁で繋がってきた木山さんの人生だからこそ、これからも人を繋いで、そしてこの岐阜を盛り上げていきたいと言う情熱を感じた。
「披露宴もどんどん行いたいですね。お祝いの席っていいじゃないですか。コロナが治まってきたので、どんどんお祝いをしていきたい。」
コロナの影響の中、激減した披露宴、今後はもっと勢力的にやりたいと語る。コロナによって結婚式の価値観が変わった現在。「ル・シノワ かわで」では、お客様がやりたい・こうしたい・などのわがままを全て叶えるため、披露宴には専門の会社も交えて、一生に一度の舞台をとことんこだわって用意する。
「理想はうちに食事に来た際に雰囲気や空間・景色を見て”こんな所で結婚式をしたい!”と思ってもらえるのが理想です。」
岐阜で有名な「ぎふ長良川花火大会」の日に披露宴を執り行った事もあるそうだ。そこには、一流のホテルでの経験とホスピタリティが活きてくる。革新的な発想の中に、料理はあくまで披露宴を彩る添え物というコンセプトは創業当時から変わらない。
「飲食とは違うことへもチャレンジしていきたい。ただ、今の仕事も大好きなんです。」
個人の目標としては、10年を一つの節目に、更に挑戦を続けていきたいと語る。将来への夢も抱きながらも、受け継いできたお店の看板を背負っている覚悟と今の仕事への情熱が伝わってきた。木山さんが繰り広げていく新しい時代の料理と展開に今後も注目していきたい。
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