伝統と革新の美しい調和。日常を彩る器を制作する、工房「十二窯」を訪ねてみた。





「暮らしの中の器」をコンセプトに、伝統的な技法と現代的な感性を融合した、普段使いに適した器を中心に、その魅力を発信している。 今回は、岐阜市を拠点に活動する陶芸作家・坪井 琢郎(つぼい たくろう)さんに、陶芸を始めた意外なきっかけから、作品へのこだわり、これからの展望など、幅広くお話をうかがった。
- 陶芸のルーツと「十二窯」に込められた意味
- 『とりあえず』から始まった陶芸作家への道
- 転機と独立、そして「暮らしの中の器」の誕生
- 作品に宿る美学とこれからの挑戦
①陶芸のルーツと「十二窯」に込められた意味
岐阜市に工房「十二窯(じゅうによう)」を構える陶芸作家・坪井琢郎さん。長年にわたり、瀬戸や瑞浪といった陶芸の伝統が息づく土地で学び、その技術を深めてきた。
瀬戸は日本有数の陶磁器生産地として知られ、瑞浪は岐阜県の美濃焼の一翼を担っている。このような歴史のある土地に身を置き、土や釉薬の特性を一つひとつ学びながら陶芸の基礎を築き上げてきた。
現在は、“暮らしの中の器”をコンセプトに、日常生活に溶け込む陶器の制作を続けている。この理念には、器が単なる装飾ではなく、“使用する人の生活を豊かに彩る存在であるべき”という、強い思いが込められている。
工房の屋号「十二窯」は、坪井さんにとって特別な意味を持つという。
「以前は横文字で『スタジオトゥエルブ』としていたのですが、展示会には海外のお客様も多く来られるので、より興味を持っていただけるよう、『十二窯』という漢字表記にしました。」
当初の読みは「じゅうにがま」だったが、ある展示会で「じゅうによう」とアナウンスされる方がいたことをきっかけに、「響きがよかったので、そちらを採用した」と明かしてくれた。では、“12”という数字にはどのような意味が込められているのだろうか。
「時計や暦のように、“12”という数字は私たちの日常生活に深く根付いていますよね。器もまた日々の暮らしに寄り添うものとして、この“12”を冠することで、より日常に溶け込む存在にしたいという願いを込めました。」
坪井さんの作品は、鉄を思わせる深い黒と、日常に寄り添う温かみを兼ね備えているのが特徴だ。伝統的な掻き落とし技法を用いながらも、モダンで洗練された模様を描くなど、伝統と革新が美しく調和している。過去から受け継いだものを大切にしながら、新しい価値を求め続ける姿勢は、多くの芸術家やファンに影響を与え、日常とアートの架け橋のような存在となっている。

②『とりあえず』から始まった陶芸作家への道
坪井さんが陶芸の道へ進み始めたのは、20歳の頃だったという。
「何かものづくりをして生きていきたいという想いはずっと抱いていました。就職先について悩んでいたときに、瀬戸に陶芸教室の働き口があると聞いたんです。」
陶芸は未経験だったが、働きながら技術を習得できる環境に魅力を感じた坪井さん。他社の内定を辞退し、瀬戸に拠点を移すことを決意した。
「最初は『とりあえず働いてみようかな』くらいの気持ちでしたが、最初の半年から1年で陶芸の奥深さに目覚めましたね。焼き上がった時の面白さに魅了され、『どうせなら、ある程度技術を習得しよう』と考えるようになりました。」
土に触れ、形を作り、炎の中で器が誕生する過程に、瞬く間に引き込まれていった坪井さん。日本有数の陶磁器生産地であり、多くの陶芸作家が集まる整った環境の中で、作陶技術を着実に磨き、陶芸作家としての土台を築き上げていった。
この『とりあえず』という気持ちから始まった選択が、その後の人生を決定づける大きな転機となったのは、まさに運命的と言える。
③転機と独立、そして「暮らしの中の器」の誕生
瀬戸での充実した時間を経て、一度岐阜に戻り、配送業を経験した坪井さん。しかし、『物を作って生きていきたい』という根本的な思いは、決して消えることはなかった。
「配送業の子会社を任される話もありましたが、このままではあっという間に時間が過ぎてしまうと感じ、退職を決意しました。常に新しいことを求める性分で、フットワークは軽い方かもしれません。あまり深く考えず、ひらめきで動くことが多いですね。」
退職後、知人から空いている貸し工房を紹介され、再び陶芸の道へ。そして、さらなる大きな転機が訪れる。
「瑞浪の方から声をかけていただいたんです。『30歳を超え、この道でやっていくにはまだまだ勉強不足だ』と感じていた時期だったので、瑞浪に行くことを決めました。」
瑞浪での経験は、陶芸に対する認識を深め、技術的な成長だけでなく、坪井さんの陶芸作家としての土台、陶芸に対する哲学を確立する上で、決定的なキーポイントとなった。
2000年、坪井さんは岐阜市に自身の工房を開設。そして、地元の素材を活かしながら、伝統的な技法と自身の感性を掛け合わせた作品を生み出し始める。「暮らしの中の器」というコンセプトが生まれたのもこの時期であり、岐阜の地から日本全国へとその魅力を広めていった。
独立は、坪井さんにとって単なる場所の変化ではなく、陶芸作家としてのアイデンティティを確立し、作品に深い意味を与える大きな一歩となった。


④作品に宿る美学とこれからの挑戦
坪井さんが生み出す作品は、日常生活に馴染むシンプルさと、機能性を追求した洗練されたデザインが魅力である。過度な装飾を控えながらも、器の形や質感そのもので、それぞれの個性を際立たせている。
坪井さんは、2007年から2019年にかけて、伊勢丹相模原店で毎年個展を開催するなど、定期的に作品を発表する場を設け、多くのファンを獲得してきた。中でも特に注目されるのが、黒土と白化粧を用いたモノトーンの美学である。黒土の持つ深みのある色合いと、白化粧の柔らかさを組み合わせた器は、落ち着きがありながらも力強い存在感を持ち、料理や空間の美しさを引き立てる効果も発揮する。
作品のバランス感覚や機能性が高く評価されるとともに、坪井さんは美濃焼伝統の技術継承にも積極的に参加している。技術とデザイン性の両面において高い評価を得ているが、その作品の根底には確固たる美意識がある。
「器は主に黒、白、青の3色を基調としています。特に黒は、数種類の土をブレンドし、長時間焼成することで生まれる重厚感のある深い黒を追求しています。掻き落としや粉引、灰釉、いぶしなど、多様な技法を用いています。」
また、手触りや使いやすさにもこだわりが詰まっている。
「普段の食卓に馴染み、料理をより引き立てる器づくりを心がけています。薄めの作りで軽く、手に馴染みやすいなど、日常使いを意識した使いやすさも追求しており、使い込むほどに艶が出てくるのも特徴です。」
器のサイズ感についても、独自の視点がある。
「うどんを食べるならこれくらいのサイズ、ラーメンなら、パスタなら、というように、料理に合わせたサイズ感を重視して、形に落とし込んでいます。コーヒーマグは、コーヒーが7分目、8分目まで入るサイズで作られているので、カフェオレには向かないとか。みなさんが普段使っている器も、実は全てそうした意図を込めて作られているんですよ。」
それぞれの器が持つ用途と、それを使う人の暮らしを深く考慮した設計は、まさに「暮らしの中の器」というコンセプトの真髄と言えるのではないだろうか。陶芸作家として30年のキャリアを持ち、制作の全工程を一人で行なう坪井さんだが、その苦労も語る。
「生地の制作から絵付け、焼成まで、全て一人で手掛けています。陶芸は力仕事の面も大きいので、この先ずっと続けるのは難しいだろうと考えています。年齢とともにスキルは磨かれていきますが、体力の面では少しずつ無理がきかなくなってきたなと感じます。昔の職人さんたちが、どうしてあんなにも長く続けられたのか不思議に思います。」
体力的な厳しさも感じているというが、こうした困難があるからこそ、一つひとつの作品に魂が宿り、手にした人に温かさが伝わるのかもしれない。
現在は、日本橋や名古屋高島屋、松屋銀座などで個展を行いながら新たな挑戦を続けており、岐阜の陶芸作家として国内外への発信を強化している。坪井さんの活動は日本国内にとどまらず、日本の陶芸文化を海外に発信する役割も担っているのだ。今後の展望として、海外での販売と、陶芸教室に意欲を見せる。
「海外での販売にも、今後は一層力を入れたいです。日本の陶芸文化は海外では珍しく、メイドインジャパンとしてのブランド力もあるので、大きな需要があると感じています。陶芸教室については、大規模なものではなく、自分の制作活動も続けつつ、陶芸の体験を提供できる小規模な教室を考えています。自分らしい雰囲気の教室を開けたらいいなと思っています。」
自身の技術と経験を次世代に伝えたいという思いが、言葉の端々から伝わってくる。最後に、坪井さんにとって「陶芸の魅力」とは何かを尋ねてみた。
「焼くことで色やかたちが変わっていく、その過程こそが焼き物の面白さだと感じています。長くこの道に関わるうちに、自然と細部に目が向くようになり、同じように見える器でも、一つひとつに異なる表情があることに気づかされました。最初から強い思い入れがあったわけではありませんが、関わり続ける中で少しずつ魅力に気づき、今ではすっかり焼き物の世界に惹かれています。」
『とりあえずやってみよう』という気持ちから始まった坪井さんの陶芸作家人生は、数々の運命的なタイミングと、何よりも「物を作って生きていきたい」という根源的な思いに導かれ、30年もの時を歩んできた。
一つひとつの器に込められた、日常への優しさと飽くなき探求心。坪井さんの生み出す作品は、今日も誰かの食卓を彩り、記憶に残る器として息づいていることだろう。

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