世界初、美濃和紙の靴下をつくる東洋繊維を訪ねてみた。
3代にわたって受け継がれてきた技術と、世界初の和紙靴下を生み出し、今もなお進化を続けている。今回は専務取締役の水谷陽治(みずたに ようじ)さんに、創業から現在に至るまでの道のり、そして未来への展望を伺った。
- 昭和12年創業、3代で受け継ぐ靴下づくり
- 営業と製造、兄弟の葛藤と成長
- 世界初の和紙靴下誕生秘話
- スタッフの笑顔が良い製品を生む
- 岐阜の誇りを足元から、自社ブランド「AMIGAMI」
①昭和12年創業、3代で受け継ぐ靴下づくり
東洋繊維は、日本では珍しく、すべての工程を自社で一貫して手がける靴下メーカーだ。熟練の職人たちが、旧式の編み機を自在に操り、コンピューター制御では再現できない絶妙な風合いを生み出している。綿やウールといった定番素材に加え、美濃和紙などの希少な糸を駆使した多彩な商品展開も大きな特徴だ。また、一般向けの商品に加え、専門性の高いブランドと長年にわたり共同開発を行い、競技やアウトドアの現場で使用される高機能ソックスの生産も担っている。現場で磨かれた技術は、すべての製品づくりに活かされている。
そんな東洋繊維の歴史は、水谷さんの祖父が始めた靴下工場に遡る。昭和12年、第二次世界大戦前のこと。祖父はメリヤス問屋で働いた後、38歳の時に岐阜県羽島郡笠松町の靴下工場を買い取り、靴下メーカーとしてスタートを切った。
高度経済成長期には、2代目である水谷さんの父が事業を継承。当時、日本のアパレル産業は世界トップクラスの勢いを持っており、東洋繊維も順調に成長を遂げていた。
しかし90年代、バブル崩壊とともに状況は一変する。1996年、長男である現社長の水谷顕治氏が会社に戻り、2002年には次男の陽治さんも岐阜に戻ってきた。
「家業である靴下工場の経営が厳しくなり、家族で立て直さなければという思いで岐阜に戻ってきました。体制を見直しながら、最小人数のスタッフとともに、もう一度立て直すところからの再出発でした。」
当時26歳だった陽治さんは、次男として靴下を継ぐことなど考えていなかったという。スノーボーダーとして活動し、フリーターとして自由に生きていた。しかし、家業の危機を前に、陽治さんは大きな決断をする。
「まずはきちんと深く知ることが必要だと思いました。仕事も同じで、本気で取り組むなら、その分野を理解し尽くさなければいけない。正直、最初はそこまで意識していませんでした。でも、さまざまな靴下を買って試し、自分でも作る中で、素材や編み方、履き心地の違いに気づき、その奥深さを実感するようになったんです。」
そして兄弟二人で「この道で行く」と決め、社名も「東洋繊維工業協業組合」から「株式会社東洋繊維」に変更。水谷顕治社長のもと、兄弟の新しい挑戦が始まった。
②営業と製造、兄弟の葛藤と成長
顕治社長が工場長として製造側を、陽治さんが営業として顧客対応や自社ブランドのブランディング・デザイン開発を担当する。この役割分担は、兄弟ならではの強みでもあり、課題でもあった。
特に営業と製造の間では、よくある対立が生じた。陽治さん自身、入社前は精密部品の製造工場で働いていた経験があり、営業が仕事を取ってくる度に「今でさえ忙しいのに」と感じていた現場の気持ちも理解できた。しかし陽治さんは顧客の要望に応えようと、納期や仕様について工場に無理を言うこともあった。製造側としては、スケジュールや技術上の制約があった。
「会社であれば上司に対しては気を遣うところですが、兄弟という関係だからこそ、つい忖度なく思ったことをそのまま口にしてしまうことがありました。若い頃は、そうした場面も少なくなかったですね。」
転機が訪れたのは、入社して10年ほど経った頃だった。
「兄弟であっても、経営者として向き合う以上、言うべきことと控えるべきことはあると感じるようになりました。以前のように感情のまま伝えるのではなく、相手の状況やタイミングを見ながら提案する。それを今は大切にしています。」
スタッフはもちろん、顧客に対しても工場の状況をできるだけ正直に伝えるなど、日頃からコミュニケーションを大切にしているという。
「日々のものづくりは、一人では完結しません。だからこそ、スタッフ同士のコミュニケーションを何より大切にしています。お互いの状況を理解し合えていれば、自然と良い仕事環境が生まれますし、それが結果として良い製品や新しいプロダクトにつながると信じています。」
靴下づくりは、編み立てから検品、縫製、そしてペアリングに至るまで、いくつもの工程を経て完成する。その分、前の工程が次の工程を思いやりながら商品を引き渡していくことが欠かせない。各部署が互いを意識し合うことで、初めてスムーズなものづくりが成り立つのだ。
③世界初の和紙靴下誕生秘話
東洋繊維の大きな強みの一つが、和紙を使った靴下づくりの技術だ。実は、世界で初めて和紙の靴下を完成させたのは、2代目・水谷二郎の時代の東洋繊維だ。当時のスタッフたちの試行錯誤によって実現したという。
昭和61年(1986年)のこと。美濃和紙を製造する大福製紙と、生地や糸を扱う商社の滝善の間で、和紙糸をアパレル業界に広めたいという構想があった。この2社の間に立ったのが東洋繊維だった。
「和紙糸を作っては、東洋繊維で何度も編み立てテストをしました。靴下の編み立ては、糸一本あれば試せるんです。和紙を細く切り、それをこより状に撚っていく。100%和紙の糸が形になるまでには、5年ほどかかりました。」
前例のない取り組みのなか、大福製紙と東洋繊維の技術者たちは試行錯誤を繰り返してきた。テストの場に靴下工場を選んだのは、靴下がアパレル製品のなかでも特に耐久性が問われる存在だからだ。
「靴下が作れるくらいの強度があって、洗濯しても溶けないし破れない。そういう耐久性を持った和紙糸が完成したのが昭和61年でした。そのとき、初めて和紙の靴下が世に出たんです。」
興味深いことに、大福製紙は昭和24年まで大蔵省の紙幣用の紙を製造していた歴史を持つ。紙幣が洗濯しても溶けたり破れたりしないのは、美濃和紙の技術が詰まっているからだ。その技術が、和紙糸にも活かされている。
和紙糸は、コットンやウールのように伸びる素材ではない。そのため、靴下として編み上げるには非常に高度な技術が必要だ。だからこそ、それを靴下として編み上げるには、確かな技術と経験が求められる。
「美濃和紙と向き合いながら、岐阜の地で靴下を作り続けてきました。それが、今のものづくりの土台になっています。」
長年の積み重ねが、今の東洋繊維を支えているのだ。
④スタッフの笑顔が良い製品を生む
東洋繊維の強さを語るうえで欠かせないのが、現場で働くスタッフの存在だ。約30名の従業員のうち、およそ75%が女性で、その多くが地元で暮らす主婦の方々だという。
「本当にありがたい存在です。どの部署も、いいスタッフに恵まれています。」
陽治さんが、今とくに大切にしているのは、働くスタッフの笑顔だ。
「みなさん、お子さんを学校に送り出してから出勤してくれています。せっかく来ていただくのに、辛い時間になってしまったら意味がないじゃないですか。笑顔で『おはようございます』から始まって、笑顔で『お疲れさまでした』と帰っていける。そんな職場であれば、ご家庭にもきっといい影響があると思うんです。」
穏やかに語るその言葉からは、ものづくり以上に“人づくり”を大切にしている姿勢が伝わってくる。
陽治さんが入社した当時は、挨拶が十分に交わされないこともあったという。工場というと、いわゆる「きつい・汚い・危険」といったイメージを持たれがちだ。だからこそ、「ここで働きたい」と思ってもらえる環境にしたいと、時間をかけて改善を重ねてきた。
「メーカーである以上、いいものを作るのは当然のことです。でも、それだけではなく、『この工場で働きたい』『楽しそうだな』と思ってもらえる場所にしたいんです。」
環境が変わると、スタッフの声も変わっていく。「こうした方がいいのでは」という前向きな提案が自然と生まれ、それがまた工場の進化につながっていく。そうした積み重ねが、結果としてより良い製品をお客様へ届ける力になっているのだ。
⑤岐阜の誇りを足元から、自社ブランド「AMIGAMI」
2018年、東洋繊維は自社ブランド「AMIGAMI」を立ち上げた。「紙を編む」という意味を込めたこのブランドは、美濃和紙を使った靴下を中心に展開している。
自社ブランドを立ち上げた理由は複数あるが、一つは、2015年から2016年にかけてアパレル業界が大きな転換期を迎えたこと。百貨店に人が行かなくなり、通販やSNSの時代に切り替わる中での立ち上げだった。
「ブランドとしての価値を打ち出せなければ、『同じ素材なら価格で選ぶ』という判断になります。それなら、自分たちの想いや品質をきちんと届けられる自社ブランドを立ち上げようと考えました。」
もう一つのきっかけは、お客様からの問い合わせだった。東洋繊維の靴下が欲しいという声をいただくことがあっても、当時は他社ブランドの製品のみを手がけており、自社として販売できる商品はなかった。
「自分たちが作った靴下です、と胸を張ってお渡しできるものがほしかったんです。ぜひ履いてみてください、と直接伝えられる存在が必要だと思い、自社ブランドを立ち上げました。」
自社ブランドを始めたことで、お客様と直接向き合う機会が増えた。ポップアップイベントなどで「東洋繊維の靴下、履き心地が良かったよ」と声をかけてもらえる。その一言が、何よりの喜びだという。
「お客様の声は、社内でも共有しています。そうすると、実際に作っているスタッフも嬉しいですし、励みになりますからね。みんなが胸を張って『東洋繊維の靴下を作っています』と言えるほうが、やっぱりいいと思うんです。」
お客様から届く一言が、現場の空気を変える。その積み重ねが、ものづくりの誇りにつながっているのだろう。
現在の事業構成は、百貨店やセレクトショップ向けのブランドが約半分、スポーツやアウトドア関連ブランドが約半分、そして自社ブランドが約1割を占めている。まだ割合としては大きくはないものの、自社ブランドの認知も少しずつ広がりを見せている。
2年前には、愛知県一宮市の「新見本工場」という店舗にショップインショップという形で靴下売り場を出店した。産地で物を作り、産地で売るという取り組みだ。
「今、日本各地でアパレルに限らず、産地のものづくりが見直されています。一宮・岐阜を中心とする尾州産地は、日本を代表する繊維産地です。その尾州の毛織物と並び、岐阜で作る美濃和紙の靴下をきちんと伝えていきたいという気持ちで出店を決めました。」
陽治さんが語る今後の夢は、とても明確だ。
「岐阜のお土産といえば東洋繊維の靴下、と自然に名前が挙がるような存在になりたいんです。湯葉や柿のように親しまれる名産品の一つとして、美濃和紙の靴下を選んでもらえたら嬉しいですね。県外の方への贈り物に、“岐阜らしさ”を感じてもらえる一足として手に取っていただきたい。靴下は実用的で、気負わず贈れるアイテムですから。」
一足の靴下に込められているのは、1300年前から続く美濃和紙の文化、昭和61年に和紙靴下を生み出した挑戦の歴史、そして3代にわたって受け継がれてきたものづくりの姿勢だ。
「東洋繊維の靴下をきっかけに、何となくでも岐阜のことを思ってもらえたら嬉しいです。美濃和紙って何だろう、と調べてみたら、1300年も続く歴史があると知るかもしれない。関ヶ原の戦いにまつわる話にもつながっていく。そんなふうに、靴下から岐阜の物語に触れてもらえたらいいですね。そして“岐阜って面白そうだな”と思ってもらえたら、それだけで十分です。」
東洋繊維が目指すのは、海外進出や大量生産ではない。地元の人に知ってもらい、地元の人に履いてもらうこと。そして、本当に良い靴下を求める人に、価値あるものづくりを届けることだ。
「一時的に話題になるだけで終わるのではなく、地に足のついた事業を続けていきたいと思っています。誰でも作れるものではなく、私たちにしか作れないものづくりを、これからも大切にしていきたいですね。」
三代にわたり受け継がれてきた靴下づくり。その根底にあるのは、家族の絆、スタッフへの感謝、そして岐阜への誇りだ。一足の靴下を通して、新しい岐阜の魅力を発信し続ける東洋繊維の挑戦は、これからも静かに、力強く続いていくのだろう。さらりとした履き心地を、ぜひ一度体感してみてほしい。
(写真左から) 水谷 顕治 社長・水谷 陽治 専務
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